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親指シフトキーボードはなぜ変だったのか

みなさま、こんにちは。たそがれの親指シフター、ミツイです。

今日もたそがれています。

タカさん

みなさまこんにちは。ぜんぜんたそがれていない普通のOL,タカです。ふつうにローマ字入力しています。

2020年に富士通が親指シフトからの完全撤退を表明してから、早いもので今年は2023年です。月日がたつのは早いです。

いまでは親指シフトそのものを知らない方が多いでしょうし、ましてや親指シフトキーボードを知らない、写真やイメージ図でも見たことがないという方がほとんどではないかと思います。

そんななか今回は、富士通から販売されていた最後の親指シフトキーボードFMV-KB613はなぜあんなに変だったのかという疑問に応えたいと思います。

これを待ち望んでいた方には朗報ですね。

タカさん

待ち望んでいた人、いないと思いますが。

ですが、お断りするまでもなく私は富士通さんとは縁もゆかりもない人間です。なので、なぜ富士通があのような親指シフトキーボードを販売していたのか、ほんとうの理由はまったくわかりません。

タカさん

でしょうね。

それでは皆さま、ごきげんよう。

タカさん

早すぎません?

ということもなくて、

これから書くのは、親指シフターのはしくれはこう見ている、という個人的な意見でしかないです。

そのうえ

私は富士通の親指シフトキーボードにあこがれた、親指シフトキーボード大好き人間です。なので、とうぜん親指シフトキーボードにたいして思いっきりバイアスがかかっています。

とても公平な意見とはいえないので、これを読まれた方が冷静な判断を下していただけたらいいなあと、思います。

ということで、あらためて

親指シフトキーボードはなぜあんなに変だったのかあ

です。

もっというと、

親指シフトキーボード・FMV-KB613はなぜあんなに売れなさそうだったのか。

です。

富士通、親指シフト撤退宣言から3年目にして、じつにタイムリーな話題ですね。

タカさん

なるほど。

ではさっそく結論です。

それは

記念碑でしかなかったから。

です。

タカさん

冗談ですよね

真面目な話です。

なんですが

記念碑とはいったいどういうことなんだと説明する前に、そもそも「親指シフトキーボード」、知らない方、多いですよね。

タカさん

はい、見たことがありません。

とうことでさっそく

親指シフトキーボードがどれだけ売れなさそうだったのか見てみましょう。

ドキドキですね。

タカさん

いいえ。

3種類のキーボードの右側部分を表示しました。いちばんうえが標準的な日本語キーボード、と言えるかどうかわかりませんが、東プレ REALFORCEの初代バージョンです。2番目が標準的な英語キーボードの配列です。

そして3番目が富士通最後の親指シフトキーボードとなった、FMV-KB613です。

Enterキーまわりの違いがわかるように補助線を引いてあります。

東プレ Realforce初代モデルのレイアウト
標準的な英語キーボードのレイアウト
FMV-KB613のレイアウト

ちなみに、キーの表記は実際の製品とは異なります。

たとえば東プレ・REALFORCEに[Conv]とか[menu]などという刻印はありません。

さらにFMV-KB613となると表記の乖離はさらにはげしくなります。

実際のKB613では、たとえば[Shift]キーの表記は[Shift]ではなく[シフト]だし、[BS]ではなく[後退]、[Esc]ではなく[取消]、という感じになります。

イメージ図からは省いていますが、問答無用、泣く子もだまる[実行]キーなどというものもKB613にはついています。

しかし、あくまでもここではレイアウトの比較をしたいのです。

表記の比較をしてしまうと論点がずれてしまうため、英語表記に統一しました。

アイコン名を入力

でも、どうしてここで英語キーボードが出てくるの

理由のひとつは、英語配列のキーボードを以前に比べてふつうに見かけるようになったからです。たとえばPFUのHappyHackingKeyboardの広告(動画等)ではモデルに英語配列キーボードを使っていますね。

そしてもうひとつは、もともと親指シフトキーボードは英語キーボード(英文タイプライタ)をモデルにしていて、じじつワープロ専用機のOASYSの親指シフトキーボードは、英語キーボードに近い(同じではない)レイアウトだったからです。

なので比較の意味であえて英語配列のキーボードを表示することにしました。

ということであらためて、FMV-KB613のレイアウトに目をむけてみましょう。

FMV-KB613のレイアウト

[BS]キー

KB613では[;]キーの右側に[BS]キー(本当は後退キー)があります。このキーは快適です。とくにワープロ専用機OASYSの場合たんなる[BS]キーとは動作が異なり、一度手になじむと手放せなくなるほど快適です(でした)。

もしかしたら親指シフトキーボード未経験者のなかにも関心を持たれる方がいるかもしれません。

タカさん

でもわたし的には手になじんだ[:]キー(日本語キーボードの場合)が「かな」入力中につかえないのは、ちょっと残念。

そこは意見の分かれ目ですね。

Enterキーと右Shiftキー

つぎにEnterキーと右Shiftキーの配置です。そのポジション自体は標準的な日本語キーボードとほぼ同じであるものの、Enterキーの形状自体がちいさくなっています。

改行が遠いです。

以前に、アンチ英語キーボード派のこんな言い分を目にしたことがあります。

「英語キーボードは[Enter]キーが(日本語キーボードより)ちいさいから嫌だ」

FMV-KB613はその英語キーボードよりさらにEnterキーがちいさく、遠くなっています。

[@]キー

さらに、それほど使用頻度は高くないかもしれませんが、[Enter]キーと[Esc]キーにかこまれて、[@]キーが離れ小島のような、びっくり仰天のポジションにあります。

タカさん

[@]キー、そんなに頻繁に使うわけじゃないですけどね。

でもその一方、このキー配置を見た瞬間に死んだふりをする方がいても、わたしはさほど驚きません。

仰天の[@]キー
タカさん

ローマ字入力する立場でいうと、‟]”キーが遠いことのほうが痛いです。けっこう使うことが多いので。

‟]”キーは図にはありませんが、最上段のいちばん右端にあります。ローマ字入力の方は使いづらいでしょうね。

[Space]キー段

[Space]キーの段もあんまり行けてない感じです。

他のキーボードでは[Alt]キーや[Menu]キー(アプリケーション・キー)は文字キーより横幅のサイズが広いのがふつうですが、KB613では逆にふつうの文字キーより幅が狭くなっています。

ちなみにFMV-KB613とともに最後まで残ったもう一機種の親指シフトキーボード、FMV-KB232ですが、基本的にはおなじです。右側のウィンドウズ・キーを取り払ったなどの理由により、[Space]キーの段はKB613とくらべマシ([Alt]キーなどが文字キーとおなじ長さ)になっていますが、それ以外は変わりません。

いかがでしょうか。

このキーボードを見て、富士通からなにかメッセージを受けるとしたら、それは

FMV-KB613、無理して買わんでもよかばい。

ということではないでしょうか。

タカさん

なぜ博多弁なんですか?

そんなことはない、このキーボードを買いたい、という意見の方ももちろんいるでしょう。

肯定的にとらえる人がいるからこそ、ひとつ前の型番であるFMV-KB611からかぞえて20年以上も販売されていたのです。

でもどちらかというと、このレイアウトを肯定する意見は少数派ではないでしょうか。

めんどうくさい理屈も一途な思いこみもすべて捨てて、子供の目ですなおにこのキー配列を見たとき、

「魅力的だ、ぜひとも使いたい」

そう思われる方は、あまり多くないんじゃないでしょうか。

実はトンデモなキーボードだったFMV-KB613

さて、ここまで私はFMV-KB613を批判的に記述してきたわけですが、それは第三者から見たらそう見えるでしょ、という話をしてきたにすぎません。

私自身はFMV-KB613を所有していました。それだけでなく、歴代親指シフトキーボードのなかでも最高峰のひとつではないか、と考えています。

アイコン名を入力

二重人格、ですか。

こんなことを書くと、今度は逆にベテラン親指シフターさんから

「絶妙のキータッチをほこったRboard proをお忘れでは?」

とか

「あんたはアルプス正規軸を使ったASkeyboard(アスキーボード)を知らんだろう」

みたいな反応が返ってくるかもしれません。

もちろん、歴代の親指シフトキーボードを知り尽くしているわけではまったくありません。

ちなみにRboard proというのはこんな感じのキーボードです。

Rboard proのレイアウト
タカちゃん

KB613と似ていますね。

はい、まったく同じではないけど似てます。

Rboard proにかんしては、親指シフトにかんして熱心な発信をつづけ、ソニーの技術者でもあった(と側聞しています)「かないまる」さんが、こういった趣旨の発信をしておられました。

「Rboard proとFMV-KB611はハード的な構造は基本的におなじ。ファームウェアが違うだけ」

で、

私がFMV-KB613を最高峰と考える理由のひとつは、まさにそのファームウェアの完成度にあります。

これがどれほどトンデモなキーボードかは、聖人さんという方が、FMV-KB611のページで詳細に説明してくださっているので、興味のある方はご覧になってください。(FMV-KB613とFMV-KB611は型番が異なるだけで基本的にはおなじキーボードです)

ざっくり言ってしまうとFMV-KB613(KB611)、羊の皮を被った虎というか、軽自動車の皮を被ったスポーツカーというか、紙飛行機の皮を被ったF1戦闘機というか、私が「親指シフトキーボードはこんなふうであってほしいな」、と考える仕組みをほぼ体現していたのですね。

タカさん

F1戦闘機がどうやって紙飛行機の皮を被るのか、そっちのほうに興味がありますね。あと、どうでもいいけど、すごい手の平返しですね。

仕組みの話です。

問題は、FMV-KB613が本来の実力を発揮するためには、専用のキーボードドライバ(およびアプリケーションプログラム)がその仕組みに対応していなければならなかった、ということですね。

そして客観的な事実として、内部の構造にフル対応したキーボードドライバを、富士通が公開することはありませんでした。

つまりFMV-KB611(≒KB613)は1997年に羊の皮を被った状態で登場し、20数年のあいだただの一度として羊の皮を脱ぎ捨てることなく、そして2020年に羊の皮のままその使命を終らせた、ということですね。

なぜでしょうか。

その背景には親指シフトのJIS化とその失敗があったと考えています。

デファクト・スタンダード

ところで

富士通が取り扱う製品というと、どんなイメージがあるでしょうか。

私のなかにある富士通製品のイメージといえば、こうです。

オーソドックス

もしくは

This is the standard

我が家のエアコンも、ほんとうにオーソドックスです。

タカさん

会社にある富士通のパソコンもいかにもスタンダードっていう感じ

言ってみれば、それが富士通の社風だといえるんじゃないでしょうか。

そして

富士通は親指シフトからの撤退する理由として、

親指シフトキーボードがデファクト・スタンダードにならなかったから。

といった趣旨のことを表明しております。正確な引用ではありませんが、ニュアンスとしてはそんな感じです。

これはほぼそのままストレートに受けとっていいのではないでしょうか。

親指シフトキーボードというのは、スタンダード、オーソドックスとは対極にあるようなイメージを持たれています。

そのイメージを最後まで払拭することができなかった。

である以上は撤退しましょう、というとてもシンプルすぎる話だったと思います。

親指シフトのJIS化

撤退にかぎって、私は富士通を批判的にはみていません。

公平に言って、富士通は親指シフトキーボードがデファクト・スタンダードになるように努力をしてきたと思います。

どうやって?

それが、親指シフト配列のJIS規格化、です。

タカさん

親指シフトのJIS化!

時代は1989年です。親指シフトキーボードの普及と標準化(ようするにJIS規格化)を目指して日本語入力コンソーシアムという第三者機関が立ち上がりました。富士通もそれに参加したというかたちをとっていますが、もちろん決定権をにぎっていたのは富士通ですよね。

そして「かな配列」の名称もNICOLA(ニコラ)と決まりました。

タカさん

ニコラちゃん、かわいい名前ですね。

ミニラの親戚ではありません。日本語入力コンソーシアム・レイアウトの頭文字をとったものです。

親指シフト配列のJIS規格化は、富士通(内の親指シフト推進派)にとって悲願のようでした。それを実現するために関係者は懸命の努力をなさったと推察しますし、親指シフター(のはしくれ)としても、その営為にたいして深く敬意を払いたいと思います。

ここで客観的な結論だけを書くと、親指シフトJIS規格化のための運動は失敗に終わりました。

側聞するところでは、当時の官僚サイドの反応は、親指シフトJIS規格化を拒絶するものではなかったようです。

しかし事実として、親指シフトがJIS規格になることはありませんでした。

そして、ここから先は個人的な意見、主観の話です。

富士通が親指シフトのJIS規格化を断念し、親指シフトキーボードがデファクト・スタンダードにはなりえないと見切りをつけ、おおざっぱな「方向性」を決定したのは1990年代の半ばころだったのではないかと推察しています。

おおざっぱな「方向性」というのは、まずOASYSキーボードからの完全撤退であり、さらには親指シフトそのものからも撤退を選択肢にいれたという意味です。

OASYS100Fのレイアウト

余談になりますが、日本語入力コンソーシアムの公式サイトを閲覧すると、JIS化要望書を1996年(平成8年)秋に提出したと受けとれるページがあります。これにかんしては言及しませんが、しかし1996年というと、もう親指シフト終わった感に満ちあふれておりましたね。

じっさいにはJIS化に向けて行動をおこしていたのはもっと早い段階(1989年日本語入力コンソーシアム発足直後)であり、そして(日本語入力コンソーシアムが)JIS化要望書を提出したという1996年あたりには、富士通内ではひとつの結論にたどりついていただろう、というのが私の意見です。

つまり親指シフトからの撤退です。

ただ、富士通としても一時代を築き、日本語入力のスタンダードを目指した親指シフトをあっさり打ち切りというわけにはいきません。

そこで、記念碑的な製品として、OASYSキーボードとは違うけれど、OASYSキーボードの面影をそれとなく残したキーボードをあらたに世に送り出した。

これによって新規需要を開拓しようとする意図は薄く、むしろいち時代を築いたOASYSをてがけた企業の、社会的使命の一環として記念碑的な位置づけのキーボード、それが、

FMV-KB611です。

FMV-KB611の大雑把なレイアウト

1997年のことです。

とても売れそうにないキーボードを長年にわたって販売していた理由が、これになるかと思います。FMV-KB611の後継バージョンがでることもなく、標準のUSB規格にも対応せず、専用のキーボード・ドライバを必要とする仕様が変わらなかった理由も、同様です。

しかし基本的に同一製品であるFMV-KB613もふくめ、それから20年以上も販売が継続していたわけですから、それだけ高いポテンシャルを持っていたキーボードだった、ということでしょう。また熱心な親指シフターの声が富士通にも届いたということかもしれません。

親指シフトキーボードがずっと変だったわけじゃない

ちなみに「親指シフトキーボードがなぜ変だったのか」というタイトルですが、親指シフトキーボードがずっとずっと変だったわけではありません。

たとえば、株式会社PFUのHappy Hacking Keyboard公式サイトにあるキーボードコレクションには、かつてソニーが自社のワークステーションnews向けに販売していた親指シフトキーボードの画像があります。

このキーボード、正確な販売年月日はわかりませんが、刻印がNICOLAではないようなので1989年以前だろうと思います。(はんぶんヤマカンでいうと1988年頃、かな?)

出典(株式会社PFU)

親指シフトキーボードは富士通が特許を取得していたため、株式会社アスキーのASkeyboard(アスキーボード)などとおなじように、富士通からライセンスを受けて販売していたと推察します。

それはともかく、むしろこちらのほうがずっと現代的な感じがしますね。個人的にはタブキー、左シフトキーのあたりがどうかな?と思いますが、それをべつにすればけっこういい感じのレイアウトです。

逆L型エンターキー、エッジが効いてますね。

画像にはありませんがキーボード左上には「SONY」の刻印があったみたいです。

見てみたかったあ。

それとともにこの時代、JIS86配列(後述)の普及が失敗に終わりそうな趨勢を見てとり、富士通が親指シフトにかんして本気で攻めにいった時代、という印象です。

FMV-KB232の反撃も及ばず

前述のように1990年代半ばごろまでには、親指シフトからの撤退という選択肢を、富士通は経営方針のなかに明確に取り入れた、と私は考えています。

しかし富士通がただ漫然と手をこまねいていたわけではありませんでした。

KB611の発売から10年がすぎた2008年にはあたらしい親指シフトキーボードFMV-KB232を世に出してきたのです。これはKB613に負けず劣らず「さすが富士通」と思わせるほど質の高いキーボードでした。

2008年当時は、親指シフトというともうすっかり世間から忘れ去られた観があったので、「この時期に、よくぞこれほどのキーボードをだしてきたなあ」とびっくりしたのを覚えています。

KB232の大雑把なレイアウト

いずれにしてもOASYSキーボードではデファクトスタンダードになりえないと考えた富士通は、いわば最後の切り札としてNICOLA規格に準拠したキーボード・FMV-KB232を発売したわけです。

しかしKB232ほどのキーボードをもってしても親指シフトを巡るおおきな流れを止めることはできませんでした。岩盤のOASYSユーザーが離れていき、新規の親指シフターも増加しない、という負のスパイラルをとめることはできなかったのです。

最後になりましたが、親指シフトというすばらしい技術を開発してくださったこと、そして1980年OASYS 100のキーボードから、最後のFMV-KB232に至るまで、こと親指シフトキーボードにかんして一貫して真摯な姿勢をつらぬき通していただいたこと、この2点において富士通さんにはあらためて感謝の気持ちを申しあげたいと思います。

ここまでで、本編は終了です。

以下、蛇足です。

1980年代はほんとうに黄金期だったのか?

ASAhiパソコン、というパソコン誌をご存じでしょうか?

一定世代以上のかたならご記憶にあるのではないでしょうか。1988年に創刊された朝日新聞社の、初心者向けパソコン誌です。

ASAhiパソコンの執筆者のおひとりに歌人の俵万智(たわらまち)さんがいらっしゃいました。

俵万智さんは連載スタート時点ではほんとうに初心者、というかパソコンがかなり苦手の方だったようです。

こんな逸話があります。

パソコン初心者にはmacがやさしいということで、俵万智さんはmacを使いはじめることになりました。しかし俵万智さん、マウスを空中で8の字に動かしたり、空中でマウスをクリックしてみたものの、モニタ上の文字カーソルが1ミリも動かない。

ついに我慢の限界を超えた俵万智さんは、担当の編集者にたいして

「この私に、こんな未完成品おしつけてぇー、どうしてくれますかぁ」

と涙ながらに訴えたとか訴えなかったとか。

タカさん

ほんとうですか?

すみません、俵万智さん。話盛りました。(ちなみにそのあたりのいきさつは「俵万智のハイテク日記」(朝日新聞社)に書かれています)

冗談はさておき、当時の俵万智さん、パソコンがあまり得意でなかったことは確かなようです。

ところがその俵万智さんが、知人の方からワープロ専用機のOASYSを紹介されたそうです。

使いはじめたOASYSのキーボードは、もちろん親指シフトです。

macには苦手意識が抜けなかった俵万智さんでしたが、親指シフトキーボード、OASYSの組み合わせではすんなり馴染むことができたようで、みるみる実務レベルにまで上達したそうです。

これ、俵万智さんがとくべつな存在だったのではまったくなく、1980年代にはごくありふれた光景だったと思います。

もともと親指シフトキーボードはふつうの日本人が無理なく使えることを考慮して設計されたものでした。事実ふつうの方がたが使っていたのがあの時代だったんですね。

それにくらべて現在はどうでしょうか?

「ありふれた、どこにでもあるふつうのキーボードでも、快適に親指シフトできるぜぃ」

みたいなフレーズに、ネット上で出くわすことがあります。

でも、もしそんな夢を見ている方がいらっっしゃったら「ごめんなさい」ですが、

そんなわけないです

「アイコンをポチって、アプリをインストールして、今日からごきげん親指シフト」みたいな?

そんなふうにできたら素敵ですね、とは思います。でも、

話がそんなに簡単なら富士通40年の苦闘なんてないんですよね。

現在、ふつうの人が実用的に親指シフトをしようと思ったら、富士通の親指シフトキーボードを使う必要こそないものの、すくなくとも親指シフトを受け付ける構造のキーボードは、残念ながら必要になってしまいます。(あらためて書きますが、これはキー配置の問題だけではありません)

そのうえで適切な環境設定を行うことになるのですが、ざっくり言って、そんなに簡単ではないよ、と思っていたほうがいいかも、です。

上記の俵万智さんの例でもおわかりのように、親指シフトするうえで「適切な環境設定」なんて、ほんとうはまったく必要ないんですけどね。

そういう意味で1980年代はまちがいなく初心者にはやさしい時代でした。

タカさん

やっぱり1980年代は親指シフトの黄金期だったのですね。

いいえ、まったくそうは思いません。

1980年代は親指シフトの黄金期だったと、そう感じていらっしゃる方がかつてのOASYSユーザーには多いかもしれません。でも私自身はそうは思っていないのです。

たしかにワープロ専用機を買ってきて、スイッチを入れたら誰でもすぐに親指シフトできる環境は、現在ではとても貴重なものです。(現在でも例外的にポメラとか、ありますけどね)

でも当時は常に不安と背中合わせだったのも確かです。

富士通が引いたらアウト、それですべて終わりになる、という不安です。

親指シフトキラー、JIS86キーボードが登場した頃

とりわけその不安がピークに達したのが1986年前後です。

1986年、ときの通産省(から依頼をうけた日本電子工業振興協会)が新しいJIS規格の「かな」配列を規定したのでした。JIS86配列(JIS C 6236-1986)、当時の呼称でいうところの‟新JIS配列”は、俗に富士通包囲網、親指シフト・キラーなどとも言われました。

当時はすべてのキーボードが‟新JIS配列”に統一されるので、親指シフトキーボードは使えなくなる、とまことしやかに言われたものでした(私自身も知人から親指シフト終了宣言を告げられました)。

新配列制定のための委員会がたちあがり、そのメンバーにはNTT、日立、日本電気(NEC)、三菱、日本IBMなど、そうそうたる企業が名を連ねておりました。ようするに国家あげての新配列、でした。

もちろん富士通もその委員会のメンバーです。

1987年には、富士通は11種類の‟新JIS配列”キーボードを用意することになりました。(1987年、新JISキーボード実装状況「工業技術院電気・情報企画課調べ」という資料が神田泰典さんのサイトにあげられていました)

富士通にとって「お役所」は最大級のお得意さんであり、当時の通産省が企業(とくに大企業)に及ぼす力は絶大だったとも言われるので、富士通が‟新JIS配列”キーボードを用意したことを、批判する気持ちはありません。

しかし使い手たちのあいだで不安が増大したのも確かだっただろうと思います。

親指シフト、終わりじゃね?

親指シフトキラー、JIS86キーボードの雑なキーレイアウト(キャノンCE-KB08)

客観事実としてはJIS86配列、新しいJIS規格の「かな」配列が普及することはありませんでした。この規格は後年、「使用実績がないため」廃止になりました。

もちろん、それで不安が和らいだわけではありません。

1980年代というのはそういう時代でした。

その後「もっとも不安を感じないですむ」qwertyローマ字入力が台頭してきたのはほとんど歴史の必然というふうにも思えます(意外に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、1980年代はJISかな入力が主流でした)。

ですが、

現在は違います。

2023年現在は、労をいとわなければ親指シフトに適したキーボードを手に入れることも可能です。なかにはご自身で親指シフトキーボードをつくってしまう方もおられるくらいです。

楽ではないです。

楽ではないですが、それが可能になってきたのも事実です。

私は「黄金の1980年代」より、いまのほうが好きです。

不安から解き放たれた、いい時代になったと思います。

親指シフト、JISにならなくても大丈夫かも。

デファクト・スタンダードでなくても平気かも。

そう思えたらなら、気分はむしろ清涼、

今のわたしはとても自由です。